BYC100周年特集ページ

BYC100周年を迎え、特集ページを企画しました。
創設間もない頃の資料が残っており、このクラブがどのように運営されていたのか紹介していきます。

内容は徐々に加えていきますので、完成までしばしお待ちください。(HA)

クラブ創設時の記録(1922年(大正11年)~)

BYC創設当時の記述 私のヨット50年(舵1975年4月号への寄稿文書より)

大村 泰敏
びわ湖の状況

目を転じて西の方を見よう。関西では上田健治郎氏(故人、元日本ヨット協会副会長)の話によると、琵琶湖にヨットが浮かんだのは、ほぼ明治40年頃であるという。京都の染色工場の木村勘兵衛氏と亀井辰次郎氏(○り善社長)が神戸の垂水からヨットを運び琵琶湖で帆走したのが最初だったとのことである。
大正になると、北川弥一氏(当時、太湖汽船社長)津田○右治氏(当時太湖汽船白石丸船長)絹川清氏などが、それぞれ5m位のヨットを作りセーリングを楽しんでいたようである。
大正12年*(1923年)春、ボート選手をしていた上田氏と同窓の京一商の卒業生によって京商漕艇クラブを設立され、同年8月には勝郎型の12呎ヨットを入手して帆走が始められた、そして翌年12月には大津の桑野造船所で全長30呎重さ3.5tのイギリスノーフォーク型キールヨットが完成し、「ユングフラウ」と命名された。
ユングフラウは大正14年に7月に琵琶湖周航を行ったが、同年8月の台風で繋留中に大破し、使用不能となったので、京商漕艇クラブも一時解散の止むなきに至った。しかし上田氏は昭和4年秋に12呎のヨットを建造し「K」と名付けて再びセーリング活動を開始した。そして、昭和5年の秋、元の京商漕艇クラブの有志が集まり、新たに日本ヨット倶楽部が設立された。
日本ヨット倶楽部は昭和6年5m艇2隻を建造し、それぞれ「晴嵐」「晴朗」と命名し、ユングフラウの失敗を生かして大津市尾花川湖畔に建設された艇庫に格納されることになった。
翌7年には同型のヨット2隻が建造され、「晴琳」「晴玲」と命名された。ここに至ってようやくクラブらしいフリートを所有することになったわけである。昭和7年(1932)上田健治郎氏、宮崎晋一氏、北沢清氏など関西からの呼びかけで日本ヨット協会が設立される運びになった。当時、日本ヨット協会の下部組織は、まだ東部日本ヨット協会と西部日本ヨット協会の二つだけであった。なお、日本ヨット協会の設立に伴い日本ヨット倶楽部は琵琶湖ヨット倶楽部と名称を改めることになった。

*注)京一商漕艇部OB有志で結成したのはセーリンググループがBYCの発足にあたるわけだが、上記記述では大正12年となっているものの、大正11年が正解のようである(長谷川英一氏が確認)。

BYC沿革概要   BYC倶楽部規約原案(S24.9.11)における記述
大正十二年春、京商漕艇倶楽部ヲ組織シ同年八月横浜岡本造船所ヨリスカル三隻ヲ購入。同じ頃Cat rigの帆走艇一隻ヲ入手。
大正十三年五月瀬田川ニスカルレースヲ催ス。是レ実ニ瀬田川に於ケルスカルレースの嚆始ナリ。
同年十二月大津市桑野造船所ニテ英国ノーフォーク型キールヨット(約三トン半、帆面積約三八〇平方呎)一隻ヲ建造ス。翌年七月同艇ニテ琵琶湖ヲ周航ス。其ノ年八月十五日-十六日ノ台風ニテ浜大津防波堤内係留中ノ同艇大破ス。艇の修理ハ成リタルモ其ノ後気勢揚ガラズ、艇は尾花川ノ地先ニ陸揚ゲシタルママ、雨淋霜打数年、自然ニ朽チテ再ビ使用ニ耐エズナリヌ。
昭和五年秋有志再会シテ帆走倶楽部ノ復興ヲ議ス。翌六年大津市井口造船所ニテ国内五米級(センターボード式)二隻ヲ建造シテ、晴嵐、晴朗ト命名シテ復興ニ着手。大津市尾花川ノ湖岸に艇庫ヲ設ケテ之ニ納ム・翌七年桑野造船所ニテ同型二隻ヲ更ニ建造シ晴玲、晴琳ト命名ス。
漸ク艇隊モ整イ形態モ成立シタルニ付、神戸セーリングクラブト交歓ヲ行ウ。我等行クコト一度、彼等来ルコト二度、技術ノ向上ト倶楽部運営ノ参考トヲ得、又個人的ニテリー氏ト相知ルヲ得タルハ此ノ交歓ニ因ル。
昭和七年英国ヨリ国際単一型十二呎艇ノ設計図及ビフレームノモールドヲ取寄セ、之ニヨリ桑野造船所ニテ十二呎艇十隻ヲ建造ス。八年四月十隻完成ト共ニ内二隻ヲ九州帝大ヨット部に分譲ス。
八年四月、柳ヶ崎、柳川畔ニキャビン付艇庫ヲ新築シ五米艇四隻及ビ新造ノ十二呎艇八隻ヲ之ニ納ム。
是ヨリ先、昭和七年秋、九州及ビ関東ヨリ殆ド時ヲ同ジクシテ同好者来湖ス仍テ日本ヨット協会創立ノ件ヲ議ス。上田、吉本、鈴木、宮崎、等ニ盡力シ、幾何モナクシテ協会設立ス。
七年四月艇庫完成ニ先立チ、水上スポーツノ大先輩大国寿吉氏ヲ迎ヘテ我ガ倶楽部ノ会長ニ推薦ス。会長ヨク我等ヲ指導シ、無二ノ良指導者ナリキ。
漸クシテ倶楽部ノ陣容ト艇庫艇隊モ一先ヅ整備シタルニ昭和九年九月廿一日室戸台風ニ襲ハレテ艇庫フッ飛ビ艇ハ散乱ス。
翌十年、艇庫ヲ再建ス。再建ニ当ッテハ上田元治郎氏=現在会員上田健治郎氏ノ御尊父、及ビ、西田利七氏=上田元治郎氏ノ親友=両氏ノ絶大ナル援助を受ク。
艇の小修理及ビ塗装ハ概ネ自ラノ手ニテ行ウヲ原則トシテ実行シ来リ。廿一年四月、五米艇ニ隻、十二呎艇八隻ヲ占領軍ニ供出スルマデ、概ネ良好ノ状態ヲ維持スルヲ得タリ。殆ド全艇ヲ供出シテ正ニ遺憾ニ頻レタルモ幸イ会員一同ノ熱意ニヨリテ今ヤ復興ナラントス。中古艇ヲ全リ新型艇ニ改装サレタル柿阪工作所ノ好意ハ復興ニ○リテ大イニ力アリ。
注)その後、創設年は大正11年であったと長谷川英一氏により確認されている。

BYC沿革の一節

一、晴嵐、晴朗の二艇(艇長16呎、メンスル及びジブの二枚帆、共に井口造船所で建造、日本ヨット協会設立後、暫定的に「国内五米艇クラス」にランクされた)及び同型の晴玲、晴淋の二艇(この此の二艇は前二艇より一年後に桑野造船所に於て建造)計四艇を格納するために、艇庫を尾花川湖畔(旧大津商業学校前の浜)に立てたのが昭和六年であった。

一、昭和七年秋、県の事業として尾花川湖畔埋立計画が決定し、艇庫の立退きを要求された。

一、手近の湖畔でヨットハーバーとなる可能性の箇所を探した結果、柳川尻(現在艇庫の在る所)の一角を借り受けて艇庫を建てることになった。
当時、この地は大津市の塵芥の捨て場であった(艇庫建設後二十五年間、浜の整地に努力を続けて休日毎に異物の除去に専念して来たが、今日でも、陶器や瓶類の破片が少なからず出てくるのを見てもその事は考察される)。

一.艇庫建設の基礎を造り、浜を作るために昭和バラスト会社に特にお願いして、野洲川川原から同社の砂利舟でバラストを何十隻も運んでもらった。その実況の一部は中塚善助氏撮影の十六ミリ記録写真におさめられている。

一.斯様にして基礎が出来たので、此所に永久的の艇庫を建てる為のその工をミラノ工務店に依頼した。

一.是より先、英国に注文していた国際単一型十二呎Aクラスディンギーの設計図とフレームのモールドが到着したので、それによって、規格に適合する小型ヨットを造ることを決議し、桑野造船所にその建造を依頼した(十艘)。

一.ミラノ工務店に依頼した艇庫は前述の
十六呎艇 四艘と
     十二呎艇 十艘と
を平面に格納し得る程度のもので、艇庫内から水中へレール六條を敷設し、同時に三ヶ所から艇の出し入れ出来るものであった。
昭和八年のことである。
因に尾花川の旧艇庫の立退き、新艇庫の建設に当って、立退料、移転料等は全然要求もしなかったし、下付も受けていない。

一.付記
昭和九年の初めと記憶する。琵琶湖ホテルの建設が確定した時、或る新聞に、「琵琶湖ホテルの建設予定地は琵琶湖ヨットクラブ艇庫の東方約150メートルの地点を中心として 云々」と記載されていた。(その新聞の切抜きを探しているが見当たらない)

以上 文責   宮崎晋一(昭和34年10月31日)

当時の記録写真

設立趣意書をまとめ印刷された案内です。
当時事務所は、浜大津の上田健二郎氏宅に置かれていました。
艇庫は尾花川にありました。

日本ヨット倶楽部、尾花川艇庫(1931年(昭和6年)

5m級が並んでいます。

尾花川艇庫にて(1931(昭和6年)

左から、

吉本哲夫氏提供写真

設立趣意および事業概説を以下にタイプします。
まさに日本におけるヨットスポーツの先駆けとなる一節と言えます。

設立趣意
海国ニッポンは至る處ヨット・セーリングに適するに拘わらず、未だ一般に普及せざるは、一に此れを誘導するものなく、二に大衆の関心浅きがためなり。自然美を感得し、同時に慣海性を養ひ得る此れスポーツをして一部外人の独占に委ねし、徒らに拱手美望するは我等海国民の一大恥辱なりを信ず。
玆に於て過去十数年来琵琶湖を根據として、ヨットの普及並に国際的進出を目指して進み来れる我等同志は、更に此等の目的を達して進み来れる我等同志は、更に此等の目的を達成せしむるため日本ヨット倶楽部なるものを創設せり。
かくて我国ヨットの隆興と併せて、琵琶湖近代化の一助ともならば倶楽部設立の望みは足る奇くは絶大の支持あらん事を。

事業概説
 ・ヨット及び自動艇教本編纂設計及び航海術研究
 ・レース・講習会開催
 ・建造および艇庫・クラブハウス建設
 ・各地方に於ける倶楽部設立促進
 ・欧米諸国の倶楽部と通信
 ・1940年日本に於ける万国オリンピック出場準備

組織
正会員、賛助会員、臨時会員とし詳細は部員規約参照

日本ヨット倶楽部

以下、倶楽部設立趣意書の詳細版である。

ヨット競技ルールの導入

英国から国際ヨットルールを導入、翻訳して協議規則を作り、スポーツとしてのヨットレースを導入しました。

柳が崎艇庫の建設(1932年(昭和7年))

柳が崎艇庫(1932年9月)

中塚善助氏撮影の16ミリフィルムより

編集された16mmフィルムが残っています。

日本ヨット協会設立へ

以下、大阪毎日新聞1932年11月15日の記事です。日本ヨット協会設立に向けて東京の三田ヨット倶楽部と意見一致を得て九大ヨット部も参加して発起されました。その前提として西部ヨット協会を創立、11月23日に大阪毎日新聞本社にて創立総会を挙げることになった、と記述があります。その創立総会における集合写真があるので、以下に掲載します。

西部ヨット協会創立総会 大阪毎日新聞社本社 1932年(昭和7年)11月23日

琵琶湖ヨット倶楽部への改称

1932年(昭和6年)、

舵誌掲載記事

BYC創設期の様子が記事にまとめられています。

九大ヨット部との関係

九大ヨット部50周年における、BYC長谷川英一会長の投稿文の下書きが残っています。ここに九大ヨット部とのかかわりが記述されています。